釣り哲学

釣り人本人だけしか返す事の出来ない魚をバラした時の思いは、釣り場だけでは返せない。日常的なところの見直しから。

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今月頭に僕は伊豆半島に釣りに行きました。
今月頭に書いたfimo釣行記参照
厳寒期2月の伊豆半島地磯でのヒラスズキ狙い。洗礼を受けた今年初ソルト(2015年)

そしてその時感じ、気付いた事により、2つ記事を書きました。
栗城史多さんの文章が響いた、2015年初の伊豆遠征。そして見えた人生を懸けてやるべき本当に楽しい事。

遠征釣行が教えてくれた、孤独と不安のレッスン

遠征は本当に色々な事を思わせてくれますね。
きっと、遠征は僕にとっては特別な非日常的な事でもあるからでしょう。だからその時感じるものは大きいんだと思います。

さて、今回はその遠征にて、70cmは裕に超えるヒラスズキを、左足のつま先から1mくらいまでのところまで寄せたのにバラした時の事を書きたいと思います。

そうです。
バラしました。
バラした魚が大きければ大きい程、その思いは計り知れないものです。
そして釣れるか釣れないか分からない時の一尾は、大きさに関わらず、釣り人の気持ちを大きく動かすものと思います。

バラした直後に思った事。
設定したラインが悪かったのか、結び方が悪かったのか、ドラグの設定が悪かったのか、力を入れ過ぎたのか。
何故タモを車に置いてきてしまったのか。

そもそも、それらの原因を作っていたのは、日々の生活の過ごし方に落ち着きがない事から来ていたんじゃないか。
そんな事まで思ってしまいました。

そこで着目したいのは、「何でタモを車に置いてきてしまったのか。」という事。
僕自身、その時何を思っていたのかよく覚えています。
「小さいのでもいいから釣れればいいや」
「どうせ渋いだろうな」
「めんどくさい」

心の余裕がありませんね。その時の僕は全く本気度がないです。懸けてないですよね。せっかく何百キロも遠くに来た、非日常的な特別な時間なのに。
楽しんでないです。

そしてこれはその時の釣行で始まった事ではなかったのです。

そうです。竿を振っていない時の時間の過ごし方に意識が行ったのでした。
魚をバラした時。
それは、釣り場だけで返せる思いではないと思ったのです。
そうです、竿を持っていない時。
日常的な行動の見直しから。

そう思うと、どこか、釣り場と離れたこの日常の地でも、どこかスッとピシッと引き締まりながらも心地のいい空気が目の前に広がっている感じがします。
そしてこれは、その時の遠征釣行、そしてバラした魚が教えてくれた事です。
キャッチする事が出来なくて悔しい思いもしましたが、こういう事に気付けた事を思うと、キャッチ出来なくて良かったのかもしれません。

この悔しい思いを晴らせるのは、その釣り人本人だけです。
他の誰にもその思いを晴らせる力は持っていません。

僕はこの悔しい思いを晴らす為、日常も人生が懸かっている事を忘れず、そして見直し、また釣りのフィールドにてあの魚に挑みたいと思います。

これは僕が生まれて初めてヒラスズキからの反応をとれた時の事です。↓
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この時はバラしましたが(ルアーが折れて…)、とても嬉しい気持ちもありました。
笑っちゃってますし。
この時は心の余裕があったのですね。
今またこの様なバラしをやったらとても悔しい思いが勝ってしまうかもしれないですが、何が起きても楽しめる様に、日常もちゃんと見つめる事を忘れない様に頑張りたいです。