「明日は休み?」の返答に困る時が増えました。 僕はある企業にてアルバイトとして従事する時もありますが、過去の記事にて「僕の釣りを仕事と言ってくれた人が現れました。」という事があった様に、釣りは僕の仕事とも思っています。お金はほとんど稼げていないですが。 そこで「明日は休み?」とか聞かれても、企業に従事はしないけど、明日は釣りの準備とかしたいしなぁとか思うと、明日は休みではない、のです。 という様に、釣りの準備までを仕事と思う様になると、釣りに関わるものの多くが仕事になってくるのです。こんな風にたくさんの仕事を持つ様になると、「休日」の概念が壊れていくのです。 そこで気付いたのが、「休日」って1つの企業にずっと従事するという終身雇用が生み出した言葉なのではないかと僕は思ったのです。 僕に休日はありませんし、要りません。 僕は休憩はしても「休日」はありません。 この記事を書く数ヶ月前は、僕は「休日」という概念に「労働や仕事をしない日」と思っていました。でもどうでしょう…。 「休日」に行う事の、ど定番の遊び。「休日」に思いっきり遊ぶ事、その遊びが誰かに強く心に響く事だってあるんです。その誰かに強く響かせた側の人は、とても良い仕事をした事にもなる、と僕は判断出来ます。それなら、遊びさえ仕事にもなるのです。遊びも仕事になるなら、「休日」って何なんですかね。 と、説いていくと、「休日」は「何も行動しない日」に近づいて行く様に僕は感じるのです。 そんな「休日」なら僕は要りません。 でも、そんな思いとは裏腹に、思いっきり企業に従事して働いて、やっと確保した「休日」に思いっきり釣りして遊ぶ。この気持ちすごく良く分かるんですけどね。 ただ、僕の身の回りの雇用や労働システムをうかがうと、「休日」に羽を伸ばす、というシステムが壊れて来てる様に感じるのです。
「休日」って何なんですか?
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現代の労働システムで「休日」に羽を伸ばせる程稼げていないというか。伸ばすどころか「休日」は身体を休ませるだけだったりとか。
それなら、「休日」に羽を伸ばす為の仕事にエネルギーを使うなら、羽を伸ばす事を仕事にする為にエネルギーを使った方がいいんじゃないかと僕は思うのです。「明日は休みですか?」ってやめませんか?僕はどこか、「休日」という概念が行動の本気度を損なわせている様に感じるのです。
僕はお店や企業とかでもない限り、「明日は休みですか?」の質問はしていません。
今日は仕事ですか?「休み」ですか?遊びですか?
いや、その前に、今日も行動です。
人生は思った様にはならないけど、行動した様にはなっている、と思います。
仕事という行動が、「休み」という行動が、遊びという行動がという様に、行動が今の自分を作ってます。その作られる自分が、「休日」という概念なんかに左右されたくないと僕は思うのです。
「休日=何も行動しない日」なんて過ごしたくありません。
休日無しのサンプル、いや、味方はたくさんいますよ。
「休日」という概念があるのは、この地球で人間だけだ、と僕は思います。
「休日」がなくても生きている生物はたっくさんいます。これには僕はとても心強く思っています。
メダカ1匹だけ見たって、あんなに小さいのに、彼から僕は「休日」を感じません。そう思うと、とても力強さを感じるのです。そこには「生きる事」のヒントが隠されている様に思うのです。
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