2015年9月の台風による災害、テレビやネットで状況を見たりして僕は言葉を失いました。身体もおかしくなりましたね。今回の災害には精神的にも僕は結構打撃を受けました。
災害時、災害に遭っていない僕は何をすればいい?と問いただしてみた。
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因みに僕が住む栃木県佐野市、僕の家の周りは冠水や土砂崩れもなく、田んぼの稲も少し倒れたくらいでした。
僕はこういう時こそだからなのか、何かしなきゃ!と思いました。でもそんな時にしかそう思えなという事は普段僕の気が抜けているからだと気付きました。元々、「何かしなきゃ!」な毎日なはずです。背負っているものは常にたくさんあるはずです。例えば放射性物質の問題だってそうです。3.11の被害は解決していません。今でも困っている人はたくさんいるはずです。
行動してもしなくても、正解はない。
それで、今自分に出来る事、精一杯胸張ってやれる事、それは何のか、考えました。でも考えているだけで、動きが止まってしまいました。だから体調が悪くなるんです、よね。こういう時こそ、行動すべきなんでしょうけど、本当色々考えてしまいました。
災害に遭われた方々を思えば不謹慎な事は出来ない、にしても、何をするにしても何処からか見れば突っ込まれる行動となってしまうのではないでしょうか。例えば、こんな風に僕が書いている暇があるなら何か働きかけろよ、とか。仕事をキャンセルして災害支援などに行けば、仕事場で問題も起きると思いますし。僕にとって実際に災害現場に行く事が災害支援になるのかという疑問もありますし。行動しなければ、何で行動しないんだよ。行動すれば何でそんな事してるんだよ。
ま、こんな中を進んでるわけです。
どこに向かっても正解も不正確もある世界。
混沌とした世界で聞こえてくる言葉。
こんな時、そんなどこに行っても正解はない混沌な世界を意識すると、僕は岡本太郎さんの言葉が聞こえてきます。
「無条件」と「無目的」。
この言葉がよく出て来て、とても印象に残っている岡本太郎さんの本があります。
僕がこの本と出会ってからもう10年が経とうというところですが、未だにものすごく威力を発揮してくれる本です。
そもそも、何をすればいい?に疑問。
そんな混沌とした世界を意識した中に居ると、そもそも何をすればいい?と、この「いい?」というものの、何か正解を求める様なものに疑問が出てきます。善し悪しをそこで判断するかの様な事に。
でも前述した、「どこに向かっても正解も不正確もある世界」の中では善し悪しは決められないでしょう。 「無条件」「無目的」な行動の世界と、善し悪しで決めた行動の世界。
その2つの世界は別世界。
そんな混沌とした世界を意識した中に居ると、そもそも何をすればいい?と、この「いい?」というものの、何か正解を求める様なものに疑問が出てきます。善し悪しをそこで判断するかの様な事に。
でも前述した、「どこに向かっても正解も不正確もある世界」の中では善し悪しは決められないでしょう。 「無条件」「無目的」な行動の世界と、善し悪しで決めた行動の世界。
その2つの世界は別世界。
「無条件」や「無目的」な行動を思えば、これからする行動それが善い事だから行動するのか、それが善くない事だから行動しないのか。
じゃないんですね。
善い事だからと条件や目的を持って行動してる世界と、岡本太郎さんの言う「無条件」と「無目的」に行動する世界は全く別世界に僕は感じます。
善し悪しで判断してから行動するのか、もしくはそれがやりたいのかやりたくないのか、の違い。
善し悪しで判断してみて、それが善いからという理由により行動するのか、もしくは自分がやりたいと思った事をやりたいからそのまま行動するのか、の違い。
善いからやる、に囚われていると、本当の力はそこには無いのではないかと僕は思います。
善いと思える事をすればいいのか。いや、その前に善し悪しを抜きにやりたいと思った事が答えなんです。
それに加えると、善し悪し抜きにもやりたいと思った事、それがその人の人間力にもなっていると思います。 なんて秀逸な魚たち。
ここで魚を出します。
善し悪しを抜きにしてみた時に残ったものが、生きていく為に前向きなものだったとしたら、きっと、そこには「芸術」があるんだと思います。
「芸術=生き延びる為の技術」なのですから。
だから、日々その力だけを使って生きている魚は「芸術」そのものに思います。そして魚は行動するのに善し悪しなんて判断していないでしょう。そして今やっている事が善い行いかどうかなんて全く判断していないのに、自分たちの社会を作ってます。そこで使っている技術はほとんど、いや全部と言っていいくらい、生き延びる為の技術だけを使って。
ほんっと賢いです。
人と魚のその「芸術=生き延びる為の技術」だけを比べたら、そんなに大差ないかもしれないですね。
やはり、魚。そこから学べるものもあるなぁと思いました。 因みに、「芸術=生き延びる為の技術」は僕もかなり影響を受けている坂口恭平さんの書籍等で知りました。
嫌われる勇気
今回の災害にて、被害に遭っていない僕は何をすればいいのか、結局はどこで何をやっても叩かれる可能性はあるわけです。そんな中でとても強そうに思えた「無条件」や「無目的」な行動の世界。でも僕はそれは理想に思います。僕はそんな強そうな「無条件」や「無目的」なものの様なもの、持っている気がしません。でも持っていない僕が何か行動するなら、もう嫌われる勇気をしっかり持って行動しなければならないとは思いました。出る釘打たれるどころか出る釘になるくらいで。
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それに加えると、善し悪し抜きにもやりたいと思った事、それがその人の人間力にもなっていると思います。 なんて秀逸な魚たち。
ここで魚を出します。
善し悪しを抜きにしてみた時に残ったものが、生きていく為に前向きなものだったとしたら、きっと、そこには「芸術」があるんだと思います。
「芸術=生き延びる為の技術」なのですから。
だから、日々その力だけを使って生きている魚は「芸術」そのものに思います。そして魚は行動するのに善し悪しなんて判断していないでしょう。そして今やっている事が善い行いかどうかなんて全く判断していないのに、自分たちの社会を作ってます。そこで使っている技術はほとんど、いや全部と言っていいくらい、生き延びる為の技術だけを使って。
ほんっと賢いです。
人と魚のその「芸術=生き延びる為の技術」だけを比べたら、そんなに大差ないかもしれないですね。
やはり、魚。そこから学べるものもあるなぁと思いました。 因みに、「芸術=生き延びる為の技術」は僕もかなり影響を受けている坂口恭平さんの書籍等で知りました。
嫌われる勇気
今回の災害にて、被害に遭っていない僕は何をすればいいのか、結局はどこで何をやっても叩かれる可能性はあるわけです。そんな中でとても強そうに思えた「無条件」や「無目的」な行動の世界。でも僕はそれは理想に思います。僕はそんな強そうな「無条件」や「無目的」なものの様なもの、持っている気がしません。でも持っていない僕が何か行動するなら、もう嫌われる勇気をしっかり持って行動しなければならないとは思いました。出る釘打たれるどころか出る釘になるくらいで。