釣り哲学

複数人での離島遠征釣行にて、先に帰宅したメンバーの涙に感動し、気付かされた事。

ある複数人での離島遠征釣行中、仕事の為に先に帰宅したメンバーがいました。
僕はそのメンバーの見送りに立ち会いましたが、どことなく寂しげな表情をしているなと感じました。楽しい離島遠征、それもそうだよなぁ、とそのくらいに少し思っただけでそこまで深く捉えていませんでした。
が、後に、メンバー伝いに「帰りの船で泣いちゃった」と聞きました。

感動…。
僕はその純粋な心に感動しました。余程その滞在間が楽しかったんでしょう。

 

 

小学生の頃の夏休みを思い出す。
僕は小学生の頃の夏休みの間に、親に1泊か2泊でよく茨城県の海に連れて行ってもらっていました。1年を通して海に行けたのはほぼその時だけでした。ものすごく楽しかったのを覚えています。そして、帰るのが嫌で嫌で仕方なかった事も覚えています。
その時の事を思い出されました。

同時に知の怖さを知る。
今現在の僕は、小学生の時とは桁違いに、楽しみで仕方なかった海に行けています。
でも、楽しめている気持ちの具合、過ごせている時間の密度の具合を比べてみたらどうでしょう…。
僕は、小学生の時の自分の方が海を楽しめていたんじゃないかと思えるのです、心に感じている楽しさの密度で言ったら。そう思うと同時に今の僕はわりと遠征に心慣れしている事に気付きました。慣れる、つまり遠征を何度も味わって(知って)きた僕は帰る時に涙を流す程の事は無くなっている事に気付き、その大人?になってしまった事に寂しさを痛感ました。
人間、1度知った事ってなかなか忘れられません。僕は釣り以外にも思う事なのですが、慣れる(知る事)により、感動の心が遠のく様な感じや、今まで感じていた世界がガラリと変わる事に「知の怖さ」を思い浮べます。1度観て感動した映画、2度目はそこまで感動しなくなっていると言う様な感じに近いです。を感じますね。

でも、知った上での楽しみもある事を予感する。
色々知って慣れて、簡単には感動しなくなって来ている心、それに気付いた時に、子供の頃の純粋な心を羨ましく思いましたが、おそらく、それを求めたところに答えはないと思うのです。
初めて目的の魚が釣れた時ってめちゃくちゃ嬉しい感覚で心が満たされます。でも、2度3度…と釣って行くと初めての時とは違うものになって行くものです。
でも釣り人は魚を求めていく…
そこに僕は知った上での楽しみがある様に思えてなりません。初めて釣った時の「うぉー釣ったゾー!」と両手を上げてはしゃぐ様なものではなく、「よし…」とその時を噛み締める様に喜ぶというか。その知った上での楽しみの要素が何なのかは漠然としていますが、僕はそれがある事を確実に予感しています。
それが無ければここまで何年も釣りをし続けていないでしょう。

持てなくとも忘れたくない心。
…と、ちょっと、メンバーの純粋な心に対抗してしまった内容になってしまいましたが、やはり涙を流せる程の時間を過ごせる心って大切に思います。
その心は持てなくとも、その存在は忘れない様にしなきゃと思わせられました。